【超わかりやすいです!先生!ありがとうございました!】

最初の5分、すごく大切なことをおっしゃっているので、それは動画もご覧くださいね!

簡単に記録しました。

密教と真言宗の歴史を

仏教を創設したのはゴータマぶった=お釈迦様ですが、

お釈迦様の説いた教えたものは簡単に言いますと

人生は苦しみである

苦しみには原因がある

原因は執着である

苦しみは消滅させることができる

執着を消滅すれば苦しみは終えられる

どうすれば執着を捨てられるかということで八正道が生まれた

全ての出来事は原因と縁が様々な状況によって顕れているので

全ての出来事は実態がなく、永続的でないという理をすれば

何者も執着をする必要がないとわかって

人は苦しみから解放されて

何をも捉れない境地に至る

執着を離れ、平安な境地に至るといっても

生半可なことでできるわけではありません

本当にその境地に至る=悟るというのは大変なことです

悟りを求める人たちは出家して、家をすて、

骨磁気流浪の生活をしながら

自らの努力によって悟りを求める時代が続いていました。

紀元前300年ごろから、釈尊がいくつもの流派に分かれた

出家者が自らの悟りを求めて修行をするというのは、誰にでもできるというわけではありません。家族を養い、普通の生活をしている人にはできない

僧侶は上層階級のものだったから、宗教としては遅れて言った

そういった教えを否定して、

ブッタの教えは普通に生活している人にも救いがあるはずだとしたのが、大乗仏教として、小乗仏教を否定しました。

心の平安の理想に祈祷して到達する教え

これを乗り物に例えているわけです

自分たちの乗り物は大きくて、多くの人々を乗せて運ぶ

小乗仏教は自分一人を乗っけるだけではないか。と、否定したのが、小乗仏教という名で否定している。

自ら悟るのは難しいから

そもそも悟った人であり

お釈迦様に救ってもらおうということになったんですね

ここで大きく仏教に変化が出てきました

救ってもらうための仏教になったのです

衆生を救う神々のような存在が仏教の中に多く顕れてきます

仏像を作って拝む、ということもここで始まってきます

古くはバラモン教と言いますが、偶像崇拝の思想がありました。

願いを叶えてもらう、

ヒンドゥー教の在り方。

一方で、ブッダ=お釈迦様は、

拝んで救ってくれるような神々は存在しない自分で自分を救うしかないのだ。と、そのような神々の存在を否定したのがブッタでした。

仏教が悟りの宗教から救いの宗教に変わったことによって数多くの仏菩薩が誕生して、

自ら修行しなくても、それらに祈れば救われると

されるようになったのです。

仏教で最高のくらいにあるのが、如来でして

小乗仏教では、如来はブッタだけが釈迦如来だったのですけど、

大乗になってから、様々な如来が誕生して加わった

様々な不動明王などの無数の菩薩が作り出されまして、それらを拝めば救われるとなっていき

仏教の偶像崇拝かが進んだわけです。

さらに、ヒンドゥー教の神秘主義的な要素である呪術や性の力に対する信仰や極端な場合は性行為を含めた儀礼なども取り入れられていった

それが密教です

こうして7世紀ごろには

仏教とヒンドゥー教に差はなくなり

お釈迦様の仏教というのは衰退していきました。

インドにイスラム教徒(徹底した偶像崇拝)が入ってきて、仏教はインドでは消滅してしまったわけです。

さて、密教というのはヒンドゥー化した仏教が密教ですから、

密教の世界を知るために

もう少し詳しくヒンドゥー教についてお話しさせていただきます

ヒンドゥー教は

多神教です

ブラフマン、ビシュナ、クリシュナなど

それだけでなく、八百万の神がいます

儀礼中心、祭り中心の宗教で

神々の偶像を飾り、花を飾り、願いを叶えてもらうわけです

性の関連の重要視しています

究極の理想は

自分が宇宙と合一する

輪廻転生から抜けて

もう何かに生まれなくても良くなること

自分が宇宙に溶け込み、宇宙と一体化し、宇宙そのものになることです

宇宙との合一

性愛はこの宇宙との合一への一つの重要な方法手段

擬似てきな宇宙との合一を性愛や性行為に求めた

宗教的な儀式として

性的な合一を試みた

ヒンドゥーでは、自己と宇宙との合一を究極の目的として、象徴主義や神秘主義が著しい特徴を持っている

自己と宇宙の合一を目的として、呪術主義の典型が曼荼羅やマントラです。

神々の構造で現したのが曼荼羅ですが

マントラというのが呪文、呪術

真言です

マントラの一番有名なのがomという言葉で、このいちごで全てが表されれう

omと唱えることで自分と宇宙を同一化することができる

自分を宇宙かすることができる

究極の解脱を果たすことができるのですが

一方で、

自分と宇宙は同じものになるんもですから

自分は宇宙を自在に操ることができる

超能力を操ることができる

曼荼羅は、全宇宙を図にして、これを見ながら瞑想する。宇宙の中に入り込み、宇宙に合一することができる。宇宙との合一によって、解脱することができて、超能力が得られる、曼荼羅はそのための装置なんですね。

今お話ししたことがヒンドゥー教の特徴なのですが、儀礼中心主義の特徴なんですが、神秘主義や呪術性などをふんだんに取り込んだのが、密教です。

それがどのように入ってきて、真言宗になったのかという言いますと

大日経と言いまして、これらの経典には行者個人が、手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を思い描き。この行3密をすることで大日如来と一体化する。

その行によって、われも仏に入るという、高度にして、独自の宗教体系なのですが、即身成仏、我が身そのままに仏となる

仏が我の中に入り、我も仏の中に入る、という独自の宗教体験なのですが、我が身そのままにして大日如来となる。即身成仏という宗教ですね。

密教では、宇宙の森羅万象を大日如来の身と口と心の働きと捉えます。

自分も大日如来の一部。それゆえに、大日如来そのものになれるとするのが、密教

他の宗派と違って、師匠と弟子との間に秘密の間に伝承されるもの

だから、密教とされるのですね

中国には8世紀前半に2つの流れがあるんですが、

胎蔵界。金剛界。

二つの流れを統一したのがけいか

そのけいかから直接伝授したのが空海

帰国後、高野山に真言宗を作りました

私が修行を受けたのもの真言宗です。

今日のテーマの真言宗のおきょうについてお話しします

理趣経がよく詠まれます。

ブッタの仏教はただ一人悟ることを目指した
その後、大乗仏教という概念が生まれ、
自分だけではなく
出家しない全ての人も救われるはずだ
ということで、
悟りの仏教から
偶像崇拝の仏教へと変わっていった
密教
密教はヒンドゥー教
自分が宇宙と合一する
輪廻転生を抜けて、何かに生まれなくてもよくなること
自分が宇宙に溶け込み、宇宙そのものになること
宇宙と自我の合一がヒンドゥーでいう
性愛は擬似的な宇宙と自我の合一とした
そのような面がヒンドゥーにある
自己と宇宙との合一が求められたことから
象徴主義や神秘主義が顕著に現れることになった
自己と宇宙との合一を求められることから
曼荼羅やマントラ

マントラ=神秘的な力を持つ
真言
omという言葉
で、全宇宙が表される
omと唱えることで自分と宇宙を同一化することができる
自分を宇宙とつなげることができる
解脱を果たすことができる
自分と宇宙が同じになるのだから
自分を操ることができるので、宇宙を自在に操ることができる
マントラは象徴的に図面で記号化したもの
この曼荼羅を使って瞑想することで
宇宙と合一することができる
そのような超能力を得る仕掛けだとされた
ヒンドゥー教
多神教
偶像崇拝
性の追求
呪術性
の要素を強く持ったのが密教
それが日本に入って、どうやって密教になったのか
大乗仏教
になったのは、後半
手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を宿すことで、3密の行いによって大日如来と一体化する。
仏が我の中に入り、我も仏の中に入る
そのようにして大日如来と一緒になる
即身成仏する教えが土台にある

秘密のうちに伝承されるものとして密教とされた
密教

インドのある国の王子

中央アジア
中国では
けいかが二つの流れの密教を統一し
その教えを持ち帰ったのが空海

彼は帰国後、高野山に道場を開いて、真言宗を開いた

真言宗

理趣経がよく読まれる

大きな法要などでも必ず読まれるお経

檀信徒の方には聞き慣れたお経ですが、意味はほとんど知らされていないお経です

意味は特に解き明かされない

このお経は特にそうです。

普通お経は漢音で読むので尚更よくわからないお経

わざと一般の人や他の宗派の人にはわかりにくいように

初心者には誤解を与える可能性があるから

このお経を意味をしったりしてはいけないとされている

なぜかというと、

秘密のお経とされている

一般に仏教では

煩悩を

欲望を清らかなものとして

手段とする

理趣経では

性愛と喩えて、

清らかなものとしてとく

まかり間違えると
性愛、愛欲肯定してしまうからだと

平安時代に

中国特に政治文化の中心であった長安では

漢音を使っていたから

だけのこと

という考え方もある。

と、私も同じように考えますが、

秘密のお経とされている

その秘密のお経をご披露するということなんですが、

このお経読むと30-40分かかるんですが

総論

全てのもの、しょうじょうは清らかである

17のことが書かれている

大日如来の周りにいる

全ての如来が集まって

大日如来の説法をきくというストーリーになっています

お経は称名として歌うように

理趣経だけは平板に唱える

一般の人には知らされないと言われましたが

さほどのことはありません

プリントをご覧いただきたいのですが

理趣経とは

大いなるダイアモンドのように不偏で

さんまや、仏の悟りの境地を説いた

般若はちえのかんせいをとく

この般若600かんの一部

道筋とか理

ちえの完成の一部

意訳を読んでいきます

このお経は

大日如来の説法

中間もはじめも、終わりも全てよく

清らかである

全ての存在は清らかであるという

教えをときました

カッコの中の「空」について

私は読みませんでした

全ての存在は清らかであるという

恍惚感

清らかな境地

強く起こる

菩薩の境地

男と女が抱き合うことで

離れがたいと思うこと

世界は自分たちのものと思うこと

全能感

男と女がお互い見つめ合うこと

男と女が抱き合うことで

互いを激しく求め合うこと

清らかな境地、菩薩の境地です

異性を悦ばせて満ち足りること

清らかな境地、菩薩の境地です

恐れがなく、身体が安楽であること

清らかな境地、菩薩の境地です

耳に聞こえること

華やかな香り

舌で味わうこと

耳に聞こえること

舌で味わう味

(性愛の中でおける)

全ての存在は本来清らかであるから

それを認識する

般若はらみたも究極のちえをもたらす

むさぼり、怒り、どんなに積み重ねようと

地獄の境地に落ちることはありません

もしこの教えを

今生きている一生において、あらゆる存在が平等であるという境地

計り知れない喜びを得るでしょう

大した内容ではないということで落胆されたかもしれません

さすが、性に関して、強い関心をおいたヒンドゥーの教えを強く受けた密教のお経ですね

菩薩にして優れたちえあるものは

小乗を尽きるまで、

未来永劫に渡って

常に、衆生の救済に勤めて

涅槃(究極の願いの安らぎの境地)

ずっと衆生の救済に務めるが、菩薩の誓願

涅槃に赴かず

主語は菩薩にして優れたちえあるものは

般若

方便

人々を救済する手段

人々を悟りにいたらしめる

仏と人があい交わること

人に慈悲を加える

それを受けて保つ

そうした相互作用によって

菩薩の恵が人に届く

ほうという言葉には真理。物質という両方の意味がありますが、ここでは物質という意味で

世界のこと

生あるもの

生きとし生けるもの

菩薩は世界と人々の一切を小乗ならしめる

菩薩にして優れたちえあるものは

煩悩を持って

人々を教え導き

6道があり、天が一番上、地獄が一番した

迷いの世界でどのレベルにいる者であろうと教え導く

蓮の花(小乗の花)蓮は尊いとされる

諸々のよくの本質もそうである

汚れに染まらず人々を救済する

諸欲

大欲

大いなる安らぎ

豊さ

さんあいに自由自在をえて、よくけんごのりあいをだす

確実に人々を救済する

理趣経は最高のちえ、般若

世界の常識を超えた最高のちえを説いた経典です

理趣経は大安楽(密教のいうところのゴール)の道筋を説いた

密教の求めた

性欲などの欲望を原動力とした極めて次元の高い快楽のこと

ヒンドゥーでは性愛を一つの手段とした

仏教的な解釈のころもを纏っている

特に中国や日本ではそう

仏教では、快楽は否定すべきもの抑制すべきものとしてとかれた

ヒンドゥーの勢力が強まる中、

どの分野でも保守派と精鋭はが生まれるわけですけど、

仏教の対応は

空の思想を持ってきて

小乗の部分を「空」と解釈することにした

理趣経においては

菩薩の境地は「空」なるものとして

空の思想では

善悪などでの価値観で物事を見ることはよくないとされた

さらにそこに大欲という解釈が加わった

大欲というのは仏教の解釈では
個人の欲ではなく
全ての衆生を救おうとする菩薩の欲である

理趣経

大乗仏教的な理想

解釈によって

仏教の枠組みを超える世界になった

日本仏教の大きな特徴

ヒンドゥーとは違う大きな特徴だと思うんですね。

さて、これで、理趣経について終わりますが、

次の密教について少し触れておきますが

7世紀に密教として確立します

中期密教といいますが、これが中国に渡、空海によって日本

8世紀に後期の密教がある。さらに性的に色彩や呪術的な色彩が強くなっていく、タントラ仏教とも言われる

イスラム勢力が入ってきて、

インドでは仏教は駆逐され、チベットに廻られた

チベット仏教はそこで生まれた

チベットでは

日本の真言宗のものよりもっとrおどおおどろしいものが多いのは後期密教の要素が強いからです

チベット密教では男女混合図が多いのですが

それは単なるエロすのためのえろすではなく

哲学的な意味を持っているんですね

二元対立の絶対的統一などといいますが、

生と死

などの対立する事柄や

より高度な思想で統一しようとするために
性的比喩が大胆に用いられているということですね

そうした基盤があるのが理趣経ですね・

めっちゃわかりやすいです!先生!ありがとうございました!

↓ブログの更新はこちらから届きます↓
友だち追加  

妹尾留衣 著「TRUE LOVE 女神の暗示文」書籍のご購入はこちらから↓