これ、先に言っておきますけど宗教論争じゃなくて

これを通して

みんなに幸せになってもらいたくて書いてまっす!

 

 

ブッタはさ

渇望、欲望が苦しみを産むことを発見して

それを滅することを目指してるんだけど

悟りが中途半端な人間がこれを説くと

善悪論になっちゃうんだよね

 

渇望を滅しましょう!ってさ。

欲望を滅しましょう!ってさ。

 

でも、ブッタが真に伝えたいのは

渇望をせず

嫌悪もしない

つまり中庸のことを言ってるんだよね。

 

 

嫌悪もしない

それは悪いことと人間が認識するような出来事すら否定しないってこと

殺人されても、殺人が起きても、嫌悪しないってことだからね??

 

 

多くのスピリチュアルや宗教が

分かりやすく

道徳を伝えたのは

後者の

嫌悪しないっていうことを一般人が理解することが難しかったからだろうと想うのね

 

 

だけども、

 

ここを老子とOSHOと空海はぶっちぎったわけだ。

 

 

 

 

非道徳でも道徳でもなく

無道徳なんだよ!と。

 

 

2元的意識から1元的意識に至る必要があるんだよと。

 

だから、OSHOは

酒でもドラックでもなんでもやりなさい

と。

ただし、それは覚めてやらなければならない。

と、言ってるんですよね。

気づきつづけながら、それをする。

だけど、ブッタやイエスに酒やドラックをやらせたら、天国から一気に地獄に落ちてしまうことだから絶対触れないだろうとも言ってる。

凄く分かりやすくないですか??

 

欲望や渇望は苦しみを産むことはOSHOは分かってるだけど、

やりなさいと

なんでもやるがいいと。

ただし、覚めながらやりなさい。と。

 

つまりね、

スピリチュアルブームにより高まった

悪への否定

負への否定

 

これは真のスピリチュアリティじゃないわけだ。

 

これは妹尾がずっとブログで伝えてきたことでもあります。

 

ハッピー、ワクワク

そこ追い求めてると苦しむよ、と。

 

 

 

ワクワク、ハッピーでいることを意識する必要もない

ワクワク、ハッピーを渇望することもなく

哀しみ、怒りを嫌悪することもない

中庸の意識

 

 

「いまここ」

 

であり

 

すべてがあり、すべてがない

ゼロポイントの意識なんですよね

 

そして浮かんだ望みは叶うから存在してるって世界ね。

 

 

愛が高まると

ここに来る

 

 

で、ブッタの純粋な瞑想法はゴエンカ氏が世界に広めてるんだけど、

 

ゴエンカ氏の講話はちょっと二元的なんだよね。

 

道徳が強くなるような講話

 

ワクワク、ハッピーを渇望するのをやめましょうって話しに近いかな

 

今のスピリチュアルで流行してる苦しみはいらないっていうのとは違う

ネガティブを排除するっていうのとも違う

 

 

ポジティブを渇望もせず

ネガティブを嫌悪しないっていうのがブッタ

 

 

だけど、ゴエンカさんはちょっとネガティブ嫌悪してる感じの講話

だからOSHOのような老子のような無道徳は説かない

(これはあくまでも妹尾の解釈です♡すいません♡)

瞑想しなさいと。

 

で、若かりし私は想った、

 

「座ってるだけじゃ不健康じゃん」

 

「毎日瞑想して、渇望せず、不幸もつくらず、この人生何しに来たんだろう。」と

 

 

ほんでまあ、悟ったはいいけど、即効瞑想をやめてしまい、笑

 

 

七転八倒の人生を送りました。

 

 

もっと瞑想してたら

 

私は誤った道を歩まず、もっと落ち着いていて、幸せだったろうなーって想うけど

 

ここまでの体験(今回の瞑想で性的純潔=ブラフマチャリアを体験した)まで辿り着くことは出来なかったと想う。

 

そもそも

 

この命は大いなる宇宙に創造されたものだから

 

そんな偉大なものをこちらがコントロールしようとたかがしれてる。

 

私は私を管にして

 

完全に明け渡したことで、

 

無限の愛という愛の境地まで行き着くことができた。

 

とうとう、肉体という縛りを超えた愛に到達した。

 

 

それは、瞑想したら来れなかったんじゃないかなーって想う。

 

人と人の間で傷つき、悩み、苦しみ

 

命を鮮やかに生きたから

 

辿り着いたんだと想う。

 

ブッタの瞑想をOSHOは賞賛してるけど

 

OSHOはそれだけじゃだめだと言ってる

 

ヴィパサナー瞑想は偉大は発明で

 

瞑想するなら、ヴィパサナーをやらなければ、他の瞑想は意味をもたないとまで言ってる。

 

 

だけど、それだけじゃだめで

 

命を生きろとOSHOは言う。

 

 

私もそう想う。

 

瞑想しながら浮かぶのは

 

躍動感のある生命体だった

 

カエルとか蝉とか、動物の姿

 

 

いのち

 

イノチ

 

イノチは躍動感

 

ダンスだ

 

歌だ

 

渇望は苦しみを産み、

 

嫌悪は苦しみを産む。

 

いいじゃないか。

 

私はそれに体当たりする。

 

ただし、目覚めたままに。

 

それに気付いたままに。

 

だから、私はMBIの講師でありながら恥をさらすんですよ

 

堂々と未熟さをひけらかすんです

 

 

 

目覚めたままにそれをするのか

眠ったままにそれをするのかは

大きな違いがある。

 

だから、まだヴィパサナー瞑想に行ったことのない人は行ったらいいと想う

 

苦しみのすべては内なる渇望やジャッジが創り出してる

 

それをなくせば、平和と安らぎしかない。ってまじで観じます!!

 

平和と安らぎを拡げていこうと想うようになります!!

 

それに、いつも自分に気づき続けていないと、それは赤ちゃんとなんら変わりない。

 

目指すのは、

 

目覚めながら、胎児になる。

 

って感じです。

 

そして、同時に

 

イノチを踊ろうと想う

 

気づき続けて、常に瞑想しつづけている大人になれないただのガキなのかもしれない。

 

それでいい。

 

体験したくて

 

産まれたきた

 

逃げたりしない

 

イノチを逃げたりしたくない

 

私はそう想う♡

 

 

 

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