今回わたしのぶれが修正されたきっかけは

ほんとうにシンプルに

いつもの仲間

ママ友に会えたことでした

 

 

保育園の総会にいって

みんなが真摯に子供たちや社会の未来について語っている姿を

しあわせに眺めながら…

 

 

純粋で

優しくて

人の痛みを感じることが出来る人達が集まっている中で

 

ああ

愛って

優しいものだよね

って

ふっと想って…

ん?

厳しさ。支配。主張。とは、違うところだよね。って

ふっと気付いて。

時に愛がそういう表現をすることもあるだろうけど、

愛って柔らかいものだって感じて

すごく大事なことに気付いたからシェアします。

 

 

 

わたしは小学生のとき、人の悪口を言わない子供でした。

誰かが仲間はずれにされていたら、助けたりしているような子供で、

ある日、女の子が仲間はずれにされていました。

 

 

その子は万引きの癖があるということで嫌われていたようでした。

わたしはその子のそばにいって、「あなたは本当は優しい人だからね」って言い続けました。

最初彼女は泣いていたけれど、

彼女は自分の優しさを取り戻していきました。

そして、彼女は中学校3年生のころには「優しい人ナンバー1」と評価されるような存在になっていました。

 

それからわたしは人を愛そのものだと信じることにしました。

相手を信頼し、相手が愛だと信じることで、相手の闇が昇華され、愛として表現されていくのを

その後も何度となく体験したのです。

 

 

去年、わたしはとても病んでる億男に出逢いました。

わたしはいつも通り、相手を愛だと信じ続けたのですが、彼はこう言ったのです。

「誰かこのまんまでいいって言ってくれる人いないかな」

彼は闇のままでいい。苦しいままでいい。光になんてならなくていい。愛になんてならなくていい。

彼は本当に心底そう想っていたのです。

愛や光を好き好んでいたわたしといると、彼は闇を噴出してきます。

なぜならば、この世界は中庸に導かれるようになっている宇宙の仕組みが働いているからです。

わたしが光だ愛だと言うと、彼は闇を目の当たりにしてしまうのです。

そうして、宇宙が闇を否定しなくていいんだよと教えてくれて、わたしを中庸に導くように物事が展開されていくようになっていきました。

 

 

 

誰かを信じるというのも

愛であるというのも

動詞である限り

方向性がある

方向性がうまれる

 

 

誰かを助けるとか

誰かを愛に導くとか

誰かを治すとか改善するとかも

方向性があるそうであるうちは

 

 

中庸に導くために

反対側の現象が起こるしかない

 

 

 

起きる現象は

すべてバランスを取ろうとするだけ

 

 

 

愛は放射も発信もしなくていい

愛で包む必要も

愛する必要もない

 

方向性がある時点で期待があるんだよね

 

だから

相手を愛として信頼することも悪いことではないんだけど

 

 

 

もうひとつ大切なことに気付いたのは

 

 

物事を直視するということ

 

ありのまま

闇は闇のまま

光は光のまま

 

直視して

 

真っ正面から

 

先入観なく見る

まっすぐに見る

 

見えるもの

そのまま受け入れる

 

否定も肯定もせず

ジャッジもせず

(光か闇かのジャッジもせず)

 

 

渇望もせず

嫌悪もせず

 

そのどちらでもないところに居続ける

 

 

すると

 

起こる

 

 

予想もしないことが

感動の連続が

起こる

 

命という躍動が

わたしという管を通って

輝きだす

 

だから

そう

そのままでいい

 

わたしは

わたしであるだけで

めっちゃ

 

 

rutaちゃんの言葉↓↓

 

祈りを捧げるたびに、繰り返し涙があふれる。

言葉になる前の、微細な振動を持つ色とりどりのかけらを肌で感じながら。

日々の祈りは、その日一日を、謙虚にひかりを見つめ受けとれるように、

自分の全てを抱きしめることができるように、

世界がいつでも優しく美しいことを何度も思い返して、はじめるためにあるようだ。

そう思えない日もある。

でもまたすぐ朝がくる。

 

 

 

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