人々が瞑想するのは一なるものに繋がるため

 

ヨガも歌も踊りも瞑想であり

一なるものに繋がるため

 

https://ameblo.jp/oejbooks/entry-12398857201.html

 

 

一なるものとはどういうものでしょうか?

 

 

 

 

カリフォルニア州の認識科学協会の副会長B・オーリーガンは、癌などの難病で助からないと思われていた患者が奇跡的な自然回復をしたケースを調べました。

すると奇跡的治癒が起きた患者はなにがなんでも絶対に病気を治すとは思っていなくて、ただ病気の存在をみとめ、すべてがあるべくしてあるという受容と感謝の心をもっていただけでした。

これは病気を諦めてもう、どうなってもいいという投げやりな姿勢ではありません。

ラリー・ドッシー医学博士は治癒の秘訣を「何かをしようと働きかけないこと、自分の知恵で何かをするのではなく、世界の英知にすべてをゆだねることだ」と言っています。

オレゴン州セーラムのスピンドリフトという名の研究機関では、長期にわたって祈りの効果についての研究を行いました。

その研究によると細菌培養容器に糸状菌を入れ、そこにアルコールを入れて、死なない程度に損傷を与えた菌を二つの容器に分けて、一つはヒーラーが、「損傷が治って成長しますように」という「指示的」な祈りを行いました。

もう一つはただ愛と思いやりの意識だけを向けた「非指示的」な祈りを行いました。結果は「非指示的」な祈りのほうが、指示的な祈りの2倍も効果があったのです。

「指示的」な祈りとは結果を求めて、癌が治るようにとか、痛みが消えるようにと祈ることです。病気を治したいと強く思う「指示的」な祈りは自我作用を強めます。世界に境界を作るのが自我の働きです。

「前向きな考え」や「希望をもつ事」や「プラス思考」も思考なので自我を強める副作用があるのです。

一方「非指示的」な祈りは自我の欲求を押し付けようとはしません。いかなる結果も想像したり、「こうなったら」と期待したりせず、癌を拒まずに受け入れます。ただあるがままの自分を受け入れるのです。

病が治っても治らなくとも受容的な態度をとり感謝の気持ちを持つことは境界を取り払い万物との一体感をもつことでもあります。

策略を巡らすよりも「ただあるがままにいる」方が病を癒す力が湧き起こるのです。

テキサス州の一般人のがん死亡率が15~18パーセントなのに知恵遅れと精神疾患の人たちのガンの死亡率はたった4パーセントでした。精神病患者のがん死亡率は7パーセントなのに一般人のそれは13パーセントでした。

1925年から1978年まで精神病者には白血病の症例がひとつも記録されませんでした。

これは患者が死のイメージをもたず病に恐怖を感じたりしないほうがガンの死亡率が下がることを意味しているようです。

免疫と治癒の関係は患者が病に対して、どのようなイメージを持つかにかかっています。祈りのヒーリング効果が最も高くなるのは未来に対する希望や、特定の目標などが一掃されたときでした。

「非指示的」な祈りは生命の本質と共鳴しやすく、その振動が時空を超えて相手の心と同調して癒しが起こるのでしょう。心は物質的な領域を超えているのです。

キリスト教の伝統がある西洋では祈りが神に近づく方法でした。シトー修道会司祭のトーマス・キーティングが提唱する「センタリングの祈り」は内側にある沈黙に焦点を合わせるために聖なる言葉をとなえます。これはマントラを唱えるバクティヨガと同じ技法です。

思考が湧いて内側の静けさを失ってしまった時に静寂を思い出すために聖なる言葉を繰り返すのです。西洋の祈りも東洋の瞑想と同じことを指していました。

「祈りのとき、あなたの頭は何も語り得ず、何も聞こえないように努めなさい。そうすればあなたは本当に祈ることができるようになるだろう」4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコス

13世紀のドイツの神秘家マイスターエックハルトは神に何かを与えてほしいと望んだり、何かを取り去ってほしいと願うことが祈りではないと言っています。何も望むこともなく、何かになりたいと思うようなものが何ひとつない沈黙の中で、祈りが向けられる対象と、祈る者とがひとつとなること、つまり、神と一であること、神と同じ姿でいることと言っています。

キリスト教神秘主義では言葉で表すことができない深い沈黙を神的暗闇と呼びました。神は思考の領域を超えているのでマインドが沈黙した時に神が現れました。隠された沈黙の闇のうちにあるとき自我の境界を超えて聖なる全体と一つになるのです。

「祈る心は、治る力」(日本教文社)の著者ラリー・ドッシー博士は「かつて、われわれはこの文化において、次の二つのうちどちらか一つを選んで生きなければならないと教えられてきた。つまり合理的で分析的に生きるか、霊的で宗教的に生きるかの二つである。いま人びとは、こうした分裂状態で生きなくてもよいと気づきだしている」といっています。未来の治療は処方箋に祈りと瞑想が入ることになるでしょう。

 

人生ってのは本当に色々起こるものだということです。当たり前なのですが、なんとなく、意識を高めれば全て上手くいく的な、ぼんやりした期待を持っている人が多いと想います。

人生を生きる中で、絶好調も絶不調もあって、それは不可避のモノですよね。

後付けで、何故そうだったかは、わります。自分の行動を分析し、体験の理由を説明することはできます。

しかし、病になってからしか、それを省みることはできないし、人間関係がおかしくなってから、そこに思いを馳せることしかできない。

体験は起こる前に、それを分析することも、学ぶこともできない。

だから、体験は、私達に先んじる。

私達は、それを味わうことから始めるしかありません。それを受け止めることから始めるしかありません。

私が、やりたいことは、人生を好転させる方法を作ることではなくて、どんな時も、どんな出来事がやってきても、そこに丁寧に向き合い、そこから人生のくれるギフトを受け取っていく方法を自分なりに見つけ出すことだと思っています。

天気を変える方法じゃなくて、どんな天気の日も、その日を味わい、その日にしか巡り会えないモノに出会い、その日を生き切ること。雨雲を散らす前に、雨を受け入れること。

どんな体験の中に居ても、どんな状況に陥っても、自分が自分を生きていること。喜びの中にいても。悲しみの中にいても。静寂の中でも、騒乱の道を歩いていても。希望の中でも、不安と失意の中でも。

自分の人生を、自分の体験を、自分の感情を、受け入れる。それを誇りもせず、卑下することもせず、丁寧に生きる。

変えるのではなく、受け取る。

すると、変わる。変わってしまう。

同じ体験は二度とないし、同じ出会いも、同じ風景も二度とはない。

変わらないで欲しくても、変わっていくのだ。

だから、私は、体験をどう受け取るのかっていう話から始める。それを裁くのではなく、捌くのでもない。受け入れる時、全てがギフトになる。拒んできたものこそ、一番の贈り物なんだ。

受け取るのなら、全ては、ギフト。

人生に祝福を。

 

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