ある人に紹介された

生命を支配する陰陽の法則 内海康満を読んで…

 

男性は男性の視点でしか語ることが出来ない

 

女性は女性の視点でしか語ることが出来ない

 

ゆえに、真理など誰も知り得ない

 

男性と女性の視点を両方持った者でさえ、体は片方しか持つことができない

 

ゆえに、真理など誰も知り得ない

 

「語れない」と悟った者のみが真理に近づいているのかもしれない

 

 

そんな大前提を踏まえて読んで欲しい

 

 

 

 

生命を支配する陰陽の法則では

SEXが人生を左右するとある

それは間違いなくそうであろうと思う

 

SEXが神と繋がることは

私自身も体験している

 

現在ではない世界や

見たこともない世界を旅したことがある

 

 

 

性愛に秘められた力について

 

私がそれを語るには経験も知識も全く足りない未熟者であることは重々承知のうえで

 

本の感想を書きたい

 

 

 

共感するところも多いのだが

 

 

「男性からの誘いは9回断って本気を確かめろ…」とか、

表現の問題なのかもしれないが

本気を確かめることは凄くいいことだと思うけど

とても人間的で、思考の強い世界の話しに感じる…

真理だとしたら、

原始人が9回断って相手の本気を確かめるだろうか…

 

 

 

「将軍色好む」

「一夫多妻性がいい」

という話しも表現がぴったりこない。

 

 

「それほど魅力的な男性なら女性を何人抱えても当然だと思える」

という部分については共感するが表現がぴったりは来ない。

 

 

真に人を愛した時に人は無条件の愛へと達することが出来ると私は体験した。

 

 

将軍色好むことは良いことで一夫多妻性は良いことで、男は種をまき散らしたい生き物であることが真理であったとして

女性のみが無条件の愛に到達できるようになっているというのは不自然のように思う

 

 

最近、NHKで生物学的には一夫一婦制であるという学説が何度か発表されている。

 

女の理想と男の理想のぶつかり合いのようにも見えるが

 

エンリケバリオスのツインソウル

アナスタシア

アミ小さな宇宙人

 

を見ていると、3冊とも男性が書いている本でありながら

 

やはり真実の相手というのは存在して

 

その相手に出逢ったとき

 

人はその人以外愛せなくなるのだと感じてしまう

 

 

紫式部の源氏物語でもそれを感じる

 

 

もしこれが理想論であったとして

 

まあ、全てが自分の意識が創造している夢物語なのだから

 

どうでもいいのでしょうけれど

 

ワンネス。

 

私たちはワンネスに向かっている

 

ひとつの命であるということを

 

嫌というほど感じていく

 

陰と陽

 

あなたはわたし

わたしはあなた

 

をもっと超えて

 

あなたのなかにわたしがいる

わたしのなかにあなたがいる

 

という世界

 

 

そうして、

 

私達は本当にエネルギーであることを

 

ありありと知っていくのではないかと思う

 

 

その後、男性の意見を聞いてみようと思ったらこんな文章を送ってもらった。

 

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2011年11月08日 カタカムナに学ぶ ~「異性親和の相事象」から双極的世界(分化と統合の原理)が生れる~ 前回「カタカムナに学ぶ~素粒子も個体もみんな同じ、アマとカム(みんな)の分身」 では、第一句から、その後半、 【1】<イマ>とは「イのマ」、つまり、「微分されたアマ」といふ思念で、「今」や「時間空間」といふ現象の本質である。つまり細かく分かれた潜象粒子マリ「イマ」が変遷する姿の集合系、言い換えれば「トキトコロのマリ」が刻々と、光速よりはるかに早い超スピードで、発生と消滅を繰り返している統計的存在であること。そして現象界の全てのものは、「イマ」の変遷であること。 【2】生物や人間の個体もみんなカム→アマの分身であり、その根っ子ではみんな同じこと。 という内容を紹介しました。今回は第二句~第四句の三つの句を紹介します。 引き続き、相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月 シーエムシー技術開発㈱発行)から紹介します。 〔弾丸銀河団〕 (画像はリンクよりお借りしました) ■第二句 カムナガラ  タカマカシキネ トヨカブシ  チカラムスクラ アラカミチ  メグルアマタマ カムナミチ  この句の概要の意味は、『カタチこそ、人間の目に見えないけれども(カムナガラ)、宇宙球の外域は、タカマ(宇宙球)をカタチづくる根(カシキネ)であり、厚い球冠(トヨカブシ)である。そしてそこは一切のチカラを発生する場(ムスクラ)であり、宇宙球を構成するアマ始元量が、循環運動を起す場である(メグルアマタマ)。則ちそれが宇宙創成のアラカミチであり、カムナのミチである』といふサトリの表明である。 (タカマ カシキネ) とは「タカマ(宇宙球)をカタチづくり、シキって居る(構成する)ネ」といふ意味で、「ネ」とは、植物の根、屋根垣根等のように、長々とねはり拡がる感じの思念である。従って、タカマカシキネとは、「宇宙球の外側の壁のような根」といふ意味になる。ただし、壁とか根とかといっても、目にみえる物質ではなく、クモのようなオシクモネ(第一句)であり、言ひかへれば、   (トヨ カブシ) である。、「トヨ」とは統合(ト)正反四相(ヨ)の思念から「豊か」の意になる。「カブシ」とは「かぶって居るもの」の意であるから、「トヨカブシ」は、「宇宙球の豊かな冠(カンムリ)といふ形容でカムの力がアマ界に統合して四相となり、万物を生成する物理を示している。 (チカラムスクラ) とは、「チカラを発生する(ムス)場(クラ)」の意である。神話やノリトに屡々出てくる「ムスビ」は、通例「結び」と解されて居るが、それは二次的に発展した意味で、もとの上古代語では「産ス玄」則ち「発生する根元」といふ意味であった。 (メグルアマタマ) とは、「アマ始元量そのものや、アマ始元量によって成り立つタマ(宇宙の天体)は、マワリテメグル(自転しつつ公転する)運動体である」といふ意味である。天体の自転公転等は現代人も知って居るが、カタカムナ人は、アマの運動系についても、アマノウツメ、アマハヤミ、アマウツリ、アマウツシ等といふ直観を示して居る。  さて、第二句の示しは、『アマタマ(宇宙球)は、旋転循環の運動体であり、そのような運動を起す原動のチカラは、アマタマの外域(タカマソトハラ)のカシキネのトヨカブシで創成される』といふ直観が基礎になって居る。則ち『宇宙の外側は、無限のチカラの壁である』といふサトリである。このような「力の壁」といふ直観は、現代科学に於る「現象粒子の外側に、エネルギー障壁が存在する」といふ相似象の、原象を示したことになる。 ▼(チカラムスクラ) 宇宙のソトハラは則ち(カム)の世界であり、チカラを産すクラであり、すべての森羅万象を発現する宇宙の運動の根源は、このカムのチカラに基くものである、といふこの直観は、実に驚嘆すべき洞察である。我々も、地球、月、太陽、彗星等の運動は知って居たが、その力がどこから出、どうして動いて居るのか?は知らなかった。又、電気や磁気などのエネルギーの出所も行方も、知らなかった。カタカムナの物理が成り立つモトには、このような大きなチカラの洞察があったからであり、カムナガラノミチも、そのような根拠があったからこそと、うなづかれるのである。宇宙のソトハラが、無限のチカラの壁であるとは、真に鋭い直観である。 このカムのチカラが、アマ界に於て、イキ(生気)やイノチ(生命)やイキホヒ、エネルギーとなり、電気や磁気や力の素量(イカツミ、マクミ、カラミ)等ともなり又粒子(マリ)に変遷して、電子(イカツ)となり、電磁波、輻射波にもなり、原子を構成して、各種の元素となる、といふ直観物理が展開するのである。  宇宙(アマ界)にあらはれるすべてのモノは、人間も、地球も、太陽系も、そして宇宙全体が、マワリテメグル循環系であり、その運動のチカラを発生するクラは(カム)にある。(カム〉は、カタチはみえぬけれども((カムナガラ)、つねに(アマ)と重合し、刻々に宇宙球(アマタマ)を生み、宇宙球は刻々(カム)に還元する、大きな循環系である、といふ直観である。 科学の「エネルギー障壁」といふ見解は、カタカムナ人の示して居る、この巨大な(カム)の「チカラのカベ)の存在を、極微の、相似の現象に於て、とらへたものと言へるであらう。  又、現在の天文学は、「宇宙の膨脹」といふ見解を発表して居る。膨脹する以上、膨張する余裕といふものが、その外域になければならぬ筈である。 そこで、今までアイマイに宇宙は無限だと思って居た一般の人々もその宇宙が、実は「有限の球態(アマ)である」といふカタカムナ人の直観物理を、一応みとめる気にはなれるとしても、しかし、(アマ)が、宇宙の万象を生み、万象は又(アマ)に還元するといふ循環を行ひながら、その(アマ)自身が刻々に(カム)から生れ、又(カム)に還るといふ、カタカムナ人の大きな「循環系のサトリ」は、理のみで解するには、あまりにも人の能力を越えて居る。殊に(カム)が(アマ)と循環して居る複合糸の潜象であり、無限の潜態である、といふ物理は、現代科学の思考では、「ついて行かれぬ考へ方」であらう。どうしても従来の固定観念を切りかへてみなければならない。 ▼(メグルアマタマ)とは、「アマタマ(宇宙球)の運動」の意である。則ち旋転循環の運動がなければ、アマの物理はあり得ない。アマの状態を動的にとらへれば「旋転循環」であり、静的にとらへれば「膨張収縮」である(第五句)。そして、そのような運動を起すチカラの源泉が、(カム)にあり、(カムナミチ)に.よって(アマナ)に通じるといふ直観である。 (アマ)はすべての万象を生む始元であり、現象界に於ては、(アマナ)が物質構成のチカラの、究極的な原動として把握されて居る。しかしその(アマナ)は、(カムナ)の相似象である。つまりーアマナはアマの分身として物質内に入りこんで居る「内核」であり、潜象ながらあくまで球状的なもの(ミナカヌシとよばれ、原子核はその相似象)とされて居るが、(カムナ)の方は、いはば「外核」であるから球状ではない。したがって核的な名称ではなく「ホラミチ」とか「カクレホラ」等とよばれ(空洞はその相似象)、より高次元のものとして示されて居る。 現象界に於るすべてのエネルギー、(位置エネルギーをはじめ、電気、磁気、圧力、熱、光等としてあらはれる)の源泉は、宇宙をつつむ(カム)の、チカラの璧からあたへられ、その経路はアマナによってカムナのミチが通じて居る、といふ直観である。  カタカムナの物理は、現代科学の理論には受け容れられ難いであろう。しかし、もし彼らの把握が正当なものであるなら、その物理に基いて、現代の科学技術とは別体系の、新しい技法が切りひらかれる筈である。私達は、この上古代人のアマー力ムのサトリを、現代人に理論的に説明する事は無理かもしれぬが、新しい技術の開発や、ごく身近な生活生産技法の再認識等によって、その正当性を実証する事は、不可能とは言えまい。  現代物理では説明できない、エネルギーの出所や、天体を動かしている力。カタカムナの直感物理は、大きな力のモトは、カムにあり、そこから生成しまたカムに還元するという循環運動をしているという。    上古代人は、現代人からすれば、とんでもない鋭敏な感覚で、宇宙やその背後(カム)の動きを感手していたことになる。近代科学が行き詰った今、自然の摂理に沿ったカタカムナの直感物理の体系から学び、見直す点は無数にあるのではないだろうか。 ■第三句 カムナガラ タカマナリフネ サネタチネ カムナアマナノ アラカミチ タカマミハシラ カムナミチ  この句の概要の意味は、「カタチこそ、人間の目には見えないけれども(カムナガラ)、宇宙球(タカマ)の、成り立つ二つの根元(ナリフネ)は、カムナといふ雌性の根(サネ)とアマナといふ雄性の根(タチネ)である。宇宙体(タカマミ)を保つ柱(ハシラ)は、現象の始元界(アマ)と、客観背後の無限界(カム)とによって刻々に創成されて居る』。といふサトリの表明である。  この示しの根底観は、『万象に於る、オメタグヒ(すべてのものに、雌雄の性の種額がある)といふ、『異性観和」の相似象』を洞察したところにある。即ち万象の雌雄の性の根元に、客観できない核(サネ)と核で生産される種(タネ)との、二つの本性(ナリフネ)があり、その二つの本性が合体して四相(トヨ)になる事で、新しい生命が発生するといふサトリである。  (ナリフネ)  とは、「タカマの成り立つ二つの根」といふ思念であり、二つの根(フネ)とは、サネ タチネをさして居る。(トリフネと同じく古事記などの舟のあて字からは意味のとりようがない。) (タカマミ ハシラ) とは、「タカマ(宇宙)の実体(ミ)を保つ柱」の意、「ハシ」とは、橋、箸、端等の如く、正反(ハ)を渡すもの、「ラ」とはそのあらはれの思念、したがって「ハシラ」に「柱」の意味が出るのであらう。「ミ」が「御」の意になるのは、後代の引伸義である。 ▼サネタチネ 「サネ タチネ」とは「雌雄性の根」の意味であり、カタカムナ人はこの事実を、又「オメ タグヒ」とも言って居る。西欧やインド等の民族の言語に、男性、女性、中性等の別のある例は珍しくないし、その起源(カミ)の探求も、研究に値すると考へられるが、日本語にはそのような発想はみられない。則ちカタカムナ人の雌雄性(オメタグヒ)の思念の根底にあるものは、単に漠たる情緒的なものではなく、又、海や月が女性であるとか、太陽や山が男性である等といふような人情的、一面的なものでもなく、明らかに、カタカムナの直観物理を生み出した、彼らの直観のサトリである。彼らは、動物、植物はもとより=石も山も、万物はすべて両性をもち、そしてその「性」の本質は、電気的な素量(イカツミ)のオメタグヒ(サヌキとアワ)であると観じて居た。 すべてのモノにイノチがあり、イノチの持続は、この両性の電気的結合によって保たれ、結合が解ければ崩壊する。部分的にそれを言えば「新陳代謝」であり、個体としては「死」である。

自然の落花や落葉はごしの結合力のなくなったことを意味し、新しい野菜が美味しく感じられるのも、両性の結合力が強く、イノチが豊かに保たれて居るからであり一日が経つにつれ味が落ちるのは、結合がとれてイノチが失はれてゆくからに他ならない。 そしてカタカムナ人は、このように万象にみられる「サネ タチネ」の二つの根の「原象」は、(アマーカム)の対向(ムカヒ)にある、と直観したのである。� 則ち、現象界に於ては、(アマ)は「母性」の象徴であるが、アマを産むカムは、より高次の雌性(サネ)の原象であり、(カム)に対しては(アマ)は雄性(タチネ)の原象として示されて居る。  このように、男性、女性といふような、現象面にあらはれた、ゆるぎない区別とみえるものも、実は固定したものではなく、環境の支配によって、それぞれ男、女、の位相を示しては居るが、実は、それぞれ、二つのネ(フネ)をもっ

 

 

2012年01月24日 カタカムナに学ぶ~性の本来性(男と女は充たし合うためにある)~ 「カタカムナに学ぶ~電子を与える太陽・イヤシロチ、電子を奪う放射線・ケカレチ」では、次のことを提起しました。 イヤシロチ(還元電圧の環境)は陽の土地であり、波長の長い電磁波に満ちている環境であり、 ケカレチ(酸化電圧の環境)は陰の土地であり、波長の短い電磁波に満ちている環境である。 ・・・電子を外界から大量に与えられる超優良のイヤシロチでは、極論すれば、何も食べなくても外界から電子が与えられるので、生きてゆくことも可能になる。 今回も、カタカムナ人が観た男女、本来のナリ(本性)とは一体何なのか?について追究します。今回は性についての追求です。 写真はリンクよりお借りしました  第三十四句 カムナガラ  カムミカシコミ アガメアフ  ヤワセノマツリ イツキノリ  アマウツシミチ イヤミソギ  この句の概要の意味は、『カムナガラ』 和楽(ヤワセ)を求める多くの男女の集り(マツリ)に於て、互ひにカムミを尊重し尊敬し合う(カシコミ)よろこびを希求する事は(イツキノリ)、生命の代謝物である電子正孔(サヌキ アワ)を、身体に、活性に収着させる(イヤミソギ)、アマウツシの有効な方法(ミチ)である。』 (ヤワセノマツリ)  「ヤワセ」とは「セ」を「ワ」する意で、「セ」とは、セく(急く、塞く、堰く、咳く)、セセこましい、セセらぎ、セセる、セまる、等の用語に感じられる思念であり、ヤワセとは、「セ」をやわらげ和合する意である。「マツリ」とは、「マが個々(ツ)に分れた(リ)を集める」といふ思念から、後世の、神々や人々を集めてマツル、「祭」の意味が出てくる。 ▼人の生死や結婚などの際に、集合して和楽を共にしたい気持は誰にでもあるが、ヤワセノマツリのサトシは、人々のその気持ちを、積極的に、アマウツシをうけるイツキのイノリに結びつけたものである。則ち男女の異性のマツリ(集ること)が、カムミのサヌキ アワを活性に起励し誘発する、アマ ウツシの方法であるといふ物理を彼らは知って居た。別の歌詞には「オメタグヒ」と言って居る。彼らはその時の男女の接触の快よい恍惚感を最高の幸福とし、それが、互ひの生気を増大し、心身の健康を保つ、最も有効なアマウツシのおかげである事を感じて居たのである。(このようなカタカムナ以来の(マツリ)の考へ方が、後代、南方・西方等からの異民族の文化と混合して、様々の、農耕に附随する行事や風習となって今日に至ったものであらう……。)  〈カムミ カシコミ〉  が、人体に於いて、カムミを保有する密度の最も濃い場所は、男女の性器にある、といふ感得から、カシコネとかサヌキアワといふ言葉は、雌雄性器をさす意味にも使はれる。  (アガメ アフ)  「アガメ」とは崇め尊ぶ意、「アフ」とは仰ぐ意から、尊敬し合ふ意にもなる。 ▼既に述べた通り、男女に、互ひに相手を尊重する気持(カシコミ)がないと、力で征服し、生存の為に隷従する、といふ、次元の低い関係になり、真の和楽(ヤワセ)はあり得ない。上古代には、女性の数が少なかったので、このサトシは、非常に深い思慮に基くものであった事が伺はれるのである。則ち男女の、異性を求める生理的衝動の情念を、直接性器そのものへの興味に向はせず、「カムミ」に対する認識と、至烈な願望へ導き、人々の良識的な通念を、人間の性情や機能の向上の方向へむけることで、古代社会にありがちであった動物的な混交を抑止し、人間社会の在り方の基盤(カガミ)を示したものと考へられる。 ▼習性(セックス)の問題をはじめ、万事にあまりにも人間的歪み(反自然行為)の甚しくなった現代の社会状勢を見なれた目に、このようなカタカムナのサトシは、あまりにも浮世ばなれの昔語りとうつるかもしれない。しかし、この事はむつかしく考へるまでもなく、例へば現代でも、生活条件のきびしい開拓地などでは、女性が少く、且つ女性ばかり、又男性ばかりで集っても、「和楽」は無いことを人々は知って居る。つまり、女同士男同士ではケナシあひ、ケンカになるところも、異性なら、蓼喰ふ虫も好き好きで、文句なしに和らぐ(ヤワセ)のである。人々は無意識の裡に、男女和楽の集り(マツリ)を求めて、互ひに生命の代謝物である電子正孔(サヌキ アワの電気粒子)を、活性にアマウツシする大きな効果を実践しで居るわけである。  ただし、男女の和合和楽とか、男女の接触といっても、カタカムナ人の場合は、現代人の想像するような「性行為」を意味するものでは無い。この、上古代人の「性」に関する「神聖(カシコミ)」の観念は、彼らの心情を解する上に重要なポイントである。用語がないので、「神聖」とでもいふしかないのであるが、最高の畏敬の念を意味する「カシコミ」といふ言葉が、則ち、最も人間の畏敬すべきモノの宿る場としての「カシコネ(男女性器)」といふ言葉となって居るこの事実は、現代人には、異様にうつるかもしれない。   ▼現代人の「セックス」と古代人の「性」   カタカムナ人の直観によれば、個体の保全の上に、一刻も欠かせぬ、何よりも必要な、生命の根元ともいふべきものが、サヌキ アワのカムミ(正反電気)であり、それを最も活性に身にうけるアマウツシが、個体にとって最も快感(良い気持)を感じる事であり、異性の接触が、その最も有効な方法であるからこそ、それは生物にめぐまれた最大の恩恵であり、その故に、何よりも有難く、神聖な、カシコムベきものなのである。  これに対し、現代人が「セックス」とよぶ性行為は、カタカムナのサトリによれば「性」の本性(ナリ)の一面にすぎない。子孫を残す為の性行為にも亦快感を伴ふが、それは、個体にとっては、逆に生気を消耗させるものであるから、当然節度がなければならぬ。(自然の生物では限られた期間しか発情しない。)したがって、「性」といふものの本来性をサトれば、生気増大のアマウツシを得る男女の和楽は、何の憚るところもなく、大いに求め合い、与へあふ事が望ましく、異性の接触を願う本能は決して所謂「エッチ」の故ではなかった事がわかるであらう。そしてそれを、神聖な、イツキのイノリの本来のスガタに基づくものと考へた、上古代人の気持も頷かれて来る。そして、反対に、生気消耗の性行為の方は、おのづから慎む態度になる筈である。 ▼「古代人は性器を神聖なものとして拝んだ」と言って性器の形をした遺物を示す者も居る。しかし、現代人には、あまり説得力を持たない。どうして昔の人は性器を神聖視して拝む気持ちをもって居たのか?……。そのわけが本当に説明されたのなら、それらの遺物にこめられた古代人の思想も、より正しく、我々に伝はるに違ひなからう。  今の人の心を打つほどの事でなければ、昔の人の心をも動かす事はできなかった筈である。自分の生命や、性や、食のような問題に関する直感は、今の人も昔の人も、基本的には変るものではない筈である。  人間的な猥雑感情に汚されて純真さを失った後代人には、羨しい限りのスナホさで、彼らは「性の栄養」を享受して居たと考へられる。気の合ふ異性が身近に接する事で、最も能率よく電気を発生し、生気を増す現象は、半導体物質に共通の相似象であり、それは、子孫を残す為に必要な性行為とは異る、「天与の健康法」である。そして、今日殊に問題となって居る、子女の性教育に関して、オトナの側がふまへるべき指針として、このカタカムチムナ人の「性」のサトリ以上のものは考へられぬであらう。そして又現代の我々と雖も、一たびこの「性」の物理をサトリさへすれば、彼らと同じような純真さをとりもどすことが出来よう。 ▼なほ、第三十句では「ムツミ カシコネ」と歌はれ、ここでは「カムミ、カシコネ」とある。思ふに、「カシコネ(雌雄性器)のムツミ(親睦)」は、生物一般の自然のスガタであるが、「カムミをカシコム」といふ認識は、人間だけのものであらう。畏敬(カシコミ)の対象がカムミに向へば、人間の文化は向上する。しかし、対象を見誤まれば、畏敬の意識をもたぬ他の動物よりも、「ケモノ臭く」なるであらう。  「畏敬の対象」を、個人や偶像や物質に向ける事の効果と弊害を、我々は歴史上に多く見て来た。その意味で、「カシコミ」の対象を、人間的なスケールにおかず、ひたすら「カムミ」に向かはせ、「カムミ」について考へる(カムカヘル)事を、最高の人間のミチとした、カタカムナの教への高度さがしのばれるのであるが、更にそれが、後代に展開した宗教や哲学の類と根本的に異なるところは、その「カム」なるものが、単なる観念的、形而上学的、心情的なアイマイなものではなく、上古代人の鋭い直観によって把握された、「実在の潜象」である為に、その物性物理(コトワリ)が、極めて明晰に示されて居る点である。(電気にも男と女則ちサヌキとアワがあるといふ彼らの直観は、現代科学によって証明されて居るように、上古代人の直観のマトモさは、最新の理学によって、徐々に裏書きされ始めて居る。  「アマ-カムの対向」の相似象として、めいめいが自分の配偶のサヅカリを希求し、夫は妻に「アマ」を見、妻は夫に「カム」を見る気持で結ばれた人々が、相手を互ひに尊重する感情になるのは当然である。

 

それは現代人の人権思想や男女同権思想とは異質ながら、どの「民族の根」にもある、スナホな相(スガタ)に通じるものである。 ▼「カムナガラノミチ」は、人々の実際の体得に重きを置き「独学」の方法を教へて居る。則ち、学問的智識を人々に供与することを目的とするものではなく、人々の直観性能やその基盤となる感受性を養ふ目的で創造された、「実践」を主とする教示である。しかしその教へ方は、従来の宗教の教祖のような個人的な魅力を以て、無条件的に信じさせるといふやり方ではなく、人々が、めいめいの心に納得して、その教へを実行する気持になる事を最も尊重した。そこで、その為に必要な基本の智識(宇宙のコトワリ)を、表象物やウタに托して示したのであってそれは、あくまで智的理解にとどむべきものではなく、人々に、天然宇宙の相(スガタ)の相似象としての感得を、めいめいに、自得させる為であったと考へられる。当時の人々のような生物体覚を失った我々には、彼らの教示を、そのまま消化する事は難しいが、しかし、彼らの創造した実践方法は、現代の我々にとっても、非常に有効である事を私達は実験実習により確めて居る。

心ある読者は、以下に述べる方法を実行して、我々の遠い祖先の貴重な文化遺産を、活用する気特になって頂きたい。  なお、日本の「マツリ」については、海外の人々が、その特殊性に気がつき出して居る。我々も「マツリ」の意味の根本を忘れて、単に伝統保存の立前から昔の祭礼や、芸能の復元を奨励するのでは不充分である。「マツリ」の「カミ」をたどり、カタカムナの上古代人の真意を、再認識すべきである。 以上の内容を、簡単にまとめると ①男女の異性のマツリ(集ること)が、カムミのサヌキ アワ(生命の代謝物である電子正孔)を活性化・誘発する、アマ ウツシの方法であるという物理を彼らは知って居た。 ②お互いに畏敬しあう異性が身近に接する事で、最も能率よく電気を発生し、生気を増す現象は、半導体物質に共通の相似象であり、それは、子孫を残す為に必要な性行為とは異る、「天与の健康法」であること。 ③「アマ-カムの対向」の相似象として、めいめいが自分の配偶のサヅカリを希求し、夫は妻に「アマ」を見、妻は夫に「カム」を見る気持で結ばれていたこと。 これは一言でいえば、チャネリングセックスだと思った。AV監督の巨匠、代々木忠が非常に近い意味のことを言っているように思う。 チャネリングセックスとは、どのようなものか? るいネット より 男のオーガズムと女のオーガズムは、ちょうど合わせ鏡のようなものである。そして、実はこの波動が伝わり合うこと、それがチャネリングなのである。オーガズムに至るSEXでは、その過程で必ずチャネリングが起こっている。

男と女は、もともと一つのものが分かれたのではないか、と私は思う。だからSEXとは見方を変えれば、分かれた二つのものが一つに戻ろうとする行為とも言える。

分かれた際、男は男的なる部分を、女は女的なる部分をたくさん持つことになった。それぞれ自分に足りない部分、つまり男は女的なる部分を、女は男的なる部分を求めてしまう。しかし、お互いが求め合ってもそれが得られないのは、すでに述べたとおりである。

自分に足りない部分を相手から補って等分にしようとするのではなく、

自分に多い部分を相手に与えて等分にしようとしたとき、二つに分かれてしまったものは元の一つに戻ることができる。

そこには自分という名のエゴのバリアもない。

 

さて、このチャネリングがだれにでも体験できるのかという問題だが、チャネリングは決してある特別な能力を持った人だけのものではない。だれでも体験しようと思えばできるのである。ただ、制度の世界のしがらみが捨てられないことには少々むずかしい。頭の中をカラッポにして、なにもかも捨てて自然体になることが必要だ。 彼の言う波動とは、カタカムナ文献の言う電子の伝達。それが伝わることがチャネリング。 またセックスで宇宙を見るというのも、相手に「アマ」「カム」を見、その結果一体化するということなのだろう。 代々忠は、チャネリングするためには、頭をカラッポにして、自然体になることと言っている。でもそう言われても、なかなか出来そうにもない。 カタカムナの教えでは、以下のように言っている。 >「カシコミ」の対象を、人間的なスケールにおかず、ひたすら「カムミ」に向かはせ、「カムミ」について考へる(カムカヘル)事 >夫は妻に「アマ」を見、妻は夫に「カム」を見る気持 つまり畏敬の対象を目に見えない生命の代謝物「カムミ」に向かわせ、そして相手の背後に宇宙の根源:アマーカムを見る気持ちが、自然な姿としている。・・・カタカムナは、男女は、根源的な宇宙を構成するアマーカムの相事象であることを教えてくれている。・・・そう思ったらチャネリングも自然にできるのではないだろうか? また、カタカムナの文献では、男女の異性のマツリ(集ること)が、アマウツシの方法であると言っている。それはチャネリングとどういう関係にあるのだろうか?1対1ではないのだろうか? 『実現論』「前史ト.人類の雌雄分化と人類の弱点」には、次のようにある。 樹上機能を失い、絶望的な状況下に置かれたカタワのサル=人類が、その極限時代五〇〇万年間を生き延びることが出来たのは、性と踊りをはじめとする強力な解脱充足回路を形成し得たからであり、もしそれがなければ、人類は生きる希望を失って早々に絶滅していたであろう。 このように、人類にとって性とは充足源(活力源)であり、文字通り、みんなの生きる希望の源である。カタカムナ文献からも、そのことが伺える。男と女は充たし合うためにあるのだ。 また、るいネットに次のような投稿があった。 人類の婚姻制もみんなの最大期待(⇒統合軸)によって規定されるより つまり、人類集団のみんなの最大期待は精霊信仰であり、それは宇宙や自然の声を感じ取り、宇宙と一体化する行為である。・・・・ そこでの婚姻制度は、チャネリング能力を前提とした全員婚(共時婚)であっただろう。�∵チャネリングSEXでは意識の持ち様で何にでも同化することが可能である。極限時代は、チャネリングSEXによる性的エクスタシーを媒介にして全員が宇宙に意識を向け、宇宙との交信を試みたのではないだろうか。 採集部族の群婚もグループごとの全員婚であり、極限時代の全員婚の名残だと考えられる。 つまり、カタカムナの時代も全員婚でチャネリングを行い、それによって異性と同化しお互いに、エネルギーを分かち合うと共に、宇宙との交信を試みていたのだ。そしてそのチャネリング回路は、採集部族の末裔である我々日本人にも残っている。 バブル・金融崩壊や原発事故で旧価値観がどんどん崩壊していく今日、この極めて鋭く、かつ原始的な感性・活力源が、旧価値の崩壊と同時進行的に、日本人の中に甦りつつあるのではないだろうか。

 

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文章が難しくて全部を理解できないから、分かったようで分からないんですけど・・・

 

ただ、私は

女神の暗示文を降ろしたときに

宇宙からこれを聞いてるんですよ。

69

男性が女性器を刺激するとき、男性は女性の歓びを感じている。

女性が女性器を刺激するとき、女性は男性の歓びを感じている。

 

映画「君の名は」でいう

 

「入れ替わってる?」

 

です。

 

入れ替わっている。というよりも、

 

あなたの中にわたしがいる

わたしの中にあなたがいる

 

 

だからツインレイは肉体で出逢う前に意識で出逢う

それを宇宙が知らせようとしているように思うのです

 

相手が自分であり

自分が相手である

 

魂が溶け合っている状態です

 

 

 

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